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【新興ASIAウォッチ/第29回】ミャンマーでとうとう女学校をつくった日本人起業家

■わずか2年ほど実現した「国際女学院」
突然、携帯電話が鳴った。表示を見ると、ミャンマー在住の土屋昭義氏からだった。
「ああ、山田さん。例の学校だけど、今度、開校式をやることになったので、ぜひ見に来てくれないか」
土屋氏はこの連載記事(第3回)でも紹介し、私の著書『脱ニッポン国富論』(文春新書、2013)でも、その事業家としてのユニークな生き方を紹介した人物である。

彼は、4年前にミャンマーに移住し、向こうでいくつかの事業を立ち上げた。その事業の一つとして、このほど「MSM国際女学院」という学校をつくり、ミャンマー女性の職業教育に乗り出した。ちなみに、「MSM」というのは「ミャンマー・ストリー・メーキング」という土屋氏の会社の略号。“ミャンマーで新しい物語を始める”という意味が込められている。とはいえ、学校事業というのは事業・ビジネスというより、ボランティアではないのか?
「短期的なリターンを考えたらとてもできませんが、この国の未来を考えたら教育から始めるしかないと思ったんですよ」
そう彼が語っていたのは、2年ほど前のことだった。それが実現した。


■このまま事業をやっても同業者との食い合いになるだけ
土屋氏は静岡県・浜松市の出身。建設業界の風雲児として、公共事業によらない建設会社を一代で築いた人物である。彼とは10年ほど前に友人を通じて知り合ったが、日本の中堅企業の経営者としては、あらゆる面でユニークな考えの持ち主だった。

「もはや日本は高齢化し、人口も減り、市場は縮小を続けている。このまま事業をやっていていても、同業者との食い合いになるだけで未来はないし、夢も抱けない。ならば、海外に出て行くしかない」
そういう考えで、当時から、夢を持ってビジネスができる場所を新興アジアに求めていた。そして、行き着いた先がミャンマーだった。


■アジア馬鹿一家の「凡人の凡人によるグローバル戦略」
じつは、私と友人は土屋一家のことを「アジア馬鹿一家」と呼んでいた。なぜなら、彼は自分の2人の息子を自分の夢の実現に巻き込んでいたからだ。まず、長男を中国で勉強させ、シンガポールに送り込んだ。次男は「お前はインドに行け」とインドに送りこみ、現地の旅行代理店で修行させた。私がなんでそこまでやるのか?と聞くと、彼はこう答えた。

「私の息子は2人とも絵に描いたような凡人。凡人は、もはやいまの日本ではチャンスがない。日本はもう出来上がった社会で、そこで勝ち抜くとなると、相当頭がよくなければできないでしょう。それなら、まだこれから発展する可能性のある国、昔の高度成長期の日本のような国ならチャンスがある。それで、息子たちに『お前たちは日本を出ろ』と言ったんです」

この父親の考えに従った息子さんも息子さんだが、息子を行かせるなら自分も行くと、60歳を超えて本気で日本を出た土屋氏も土屋氏である。これを、親しみを込めて「アジア馬鹿一家」と呼ばなければ、なんと呼んだらいいのだろう。土屋氏は、笑ってこう付け加えた。
「この話を事業家仲間に話すと、『バカなことをしちゃっているね』と、呆れられますが、私は本気。グローバル化が叫ばれていますが、グローバル化はエリートだけのものではない。だから私は、これを『凡人による凡人のグローバル戦略』と呼んでいます」


■オープンエアの教室から聞こえてくる日本語
土屋氏がつくったMSM国際女学院は、ヤンゴン市内から北に約60キロも離れたところにあった。ヤンゴン市内からヤンゴン国際空港まで約27キロあるから、その倍以上である。まさに、田舎の中のなにもない場所、広大な田園地帯のなかにポツンと存在していた。10月22日の昼、私を含めた日本と現地からの招聘客50人ほどは、ここに、3時間もかけて汗だくになって到着した。

ミャンマーは改革開放に転じてから、まだ3年半ほどしか経っていない。すべてのインフラが未整備で、道路状況も悪く、道路はいつも渋滞。その渋滞する幹線道路をやっと抜けて舗装のない田舎道に入ったところで、私たちを乗せたバスは立ち往生。道路の凹凸がひどく、バスはこれ以上進めないということだった。それで急遽、近隣から調達したミニバンや軽トラックに乗り換え、荷台にすし詰め状態となって学校に行き着いたのである。

まだ施設が全部できていない中、校舎の一画にあるオープンエアの教室から、日本語が聞こえてきた。
「私は朝7時に起きました」
「私は朝食に卵を食べました」
先生に続いて、生徒たちが唱和する。10月1日に開校してから3週間もたっていないが、彼女たちの日本語の発音は明瞭だった。

「生徒たちはみな日本語を勉強したら、日本に行き、そこで働きたいと願っています。すごく熱心です」と、エイミー・ピョー・ミン校長。生徒はほとんどが北部のカチン州の出身で、寮で共同生活をしながら学んでいるという。
日本からの招聘客の一人、昭和女子大学事顧問特任教授でJSVA日本ベンチャー学会の重鎮でもある平尾光司氏が、生徒たちの前で挨拶した。

「私がいまいる日本の昭和女子大学は、95年前に先生5人と生徒8人でスタートしました。それがいまでは生徒数が3000人を超えています。みなさんが日本語を学んでくれることを本当にうれしく思います」


■夢は日本で貯金して帰り自分のお店を開くこと
生徒たちがつくった現地料理の昼食を一緒に食べながら、2人の生徒に話を聞いた。22歳のジャリさんは、6人兄弟の末っ子で、大学で化学を専攻したが就職はなく、日本語を学べば日本で仕事ができると聞いてここに来た。「日本でお金を貯めて帰国したらコーヒーショップを開くのが私の夢」と語った。

22歳のジャナンさんは、2人兄弟で家は貧しく、「日本語を学べば日本で仕事ができる」と聞いてここに来た。「ミャンマーでは親の面倒を見るのが子供の務めです。日本では介護の仕事があると聞きました。それでお金をもらえるなんて素晴らしい。私は帰国したらブテックを開きたい」と語った。

エイミー校長によると、生徒は、現在、18歳から30歳までの34人。朝5時半に起床、6時半から体操、7時から朝食で、授業は8時から12時まで50分1コマでやっている。お昼は12時からで、2時まで休息。その後、日本の文化や歌を学び、3時から5時まで再び日本語。6時夕食、9時就寝というスケジュール。
「開校したばかりなので、とりあえず日本語と日本文化の勉強が中心です」とのこと。
生徒を募集したとき、入学面接にやってきた生徒の中の3人は、北部の故郷から3日間も歩いてやって来たという。


■改革・開放の熱気もいまや冷め始めている
ヤンゴンは人口516万人(2014年の人口センサス調査)の大都会である。しかし、新興アジア圏にあるどの大都会と比べても、まだまだ開発途上にある。小さな商店が軒を連ね、街中には市場があり、街を歩けば露天でごったがえしている。私のような世代の日本人が、かつて昭和30代から40年代にかけて見た光景が、そのまま残っている。

ミャンマーが改革・開放政策に転じてからこれまで、日本からは多くの財界人、事業家、投資家がこの国にやって来た。それとともに、メディアの報道量は増したが、いまではその熱はかなり冷めている。投資家の中には短期リターンが期待できないために、はやばやと引き上げた者もいる。


そのヤンゴンの中心街に、土屋氏は、いち早く建設・不動産会社とビジネスサポート会社を設立し、「ヤンゴン学院」(YGLA)という語学学校を、今回のMSM国際女学院に先駆けてつくった。このヤンゴン学院の道を挟んで向かい側には、ヤンゴンで一番の名門学校とされる「Dagon High School」(ダゴン高校)がある。

「『ヤンゴン学院』の生徒はお金持ちの姉弟が中心。向かいの『Dagon High School』の生徒もいっぱい来ています。ただ、彼らは日本語を学ぶ、英語を学ぶといっても、それはアクセサリーと一緒でハングリー精神がない。MSM女学院の生徒とはまったく違いますよ」と、土屋氏。


■ミャンマーの富裕層はビジネスには興味がない
ヤンゴンのオフィスで、さらに土屋氏はこう続けた。
「ミャンマーは長く欧米に相手にされなかった。だから、中国が入り込んで、ビジネスは、軍事政権と結びついた国営企業や傘下企業を通してやるスタイルになっている。いまだにそうで、不動産などは中国人が抑えてしまっている。しかも、こちらの富裕層は働かない。なにもしようとはしない。なにしろ、不動産収入もあれば、金利も8%もつくので、『ビジネスをやっても意味がない』と言うんですよ。ここでビジネスをやるのは、いくら親日国と言っても、そんなに甘くない」

そんな中で、なぜ、彼は教育事業まで始めたのか?
ヤンゴン在住で土屋氏をよく知る人間に言わせると、「やはり、いいパートナー、信頼できる人間を見つけたからではないですか。それに、ミャンマー人は日本人が好きですしね」
そう言えば、彼はミャンマーにたどり着く前までは、新興アジア圏各地に行き、例えば「シンガポールがいい」「いやインドだ」「ベトナムがいいかもしれない」と迷っていた時期があった。だから、ミャンマーになる決定的な理由はなかった。

いまのところ、ミャンマーの政治、経済の改革・開放ぶりはスローで、旧体制は色濃く残っている。2015年の半ばから、ミャンマーの外貨リザーブは底を突き始め、銀行は闇ドル市場でドルを調達しているような状況だ。それでも、この国に投資し続ける理由はあるのだろうか?


■平均年齢27.9歳、人口ボーナス期は2053年まで続く
ヤンゴン市の一流レストラン『ハウス・オブ・メモリーズ』で、招待客を招いてMSM国際女学院の開校パーティが行われた。その出席者の中でも一番若いと思われるナビエン氏(カチン州の「School of Arts & Social Sciences」 のディレクター)と話した。彼は、日本語はできないが、英語は話す。どこで英語を学んだのとかと聞くと、「自分で勉強し、その後、シンガポールに2年行った」と言う。それで「日本に行ったことは?」と聞くと、「1ヶ月間行ったことがある。東京は素晴らしい」と続けた。

「東京は先進都市です。学ぶべきものはいっぱいある」と日本を褒めるので、「東京とヤンゴンで一番違う点はなんだと思う?」と聞いてみた。彼は、さまざまな点を挙げたが、一つだけ挙げなかった点があった。それで、私はこう言った。
「東京の街を歩いたなら、老人ばかり歩いているのが目につかなかったですか? ところが、ここヤンゴンでは若い人ばかりが歩いている。日本は高齢者の国だけど、ミャンマーは若い人の国です」
彼は、「たしかにそうですね」とうなずいた。

ミャンマーの平均年齢は、27.9歳と言われる(正確な統計はない)。そのため、生産年齢人口が増える「人口ボーナス期」は2053年まで続くという。ちなみに日本は46.5歳で、すでに人口ボーナス期は10年以上前に終わっている。


■ホンモノの「馬鹿」かどうかは将来が決める
近年の世界経済は、先進国の量的緩和による投機マネーを中心に回っている。それらのマネーは短期的なリターンを求めて、世界中を駆け巡る。新興アジア圏も例外ではない。2015年は、そうしたマネーが新興アジア圏からも引き上げられるようになった。マレーシアのリンギもインドネシアのルピアも下落し、ミャンマーのチャットも年初以来20%ほど下落した。

しかし、投資とは若者たちの将来に賭けることだとしたら、長期展望に立たなければ決して実らない。10年も20年も先を考えて行動する人間を、一般の人間は「変わっている」と言い、「馬鹿」とも呼ぶ。しかし、10年先、20年先には、「馬鹿」と呼んだ人々の方が馬鹿になっているかもしれない。
「一生ベンチャー」を続ける土屋氏が、ホンモノの「アジア馬鹿」かどうかは、ミャンマーという国とミャンマーの若者たちの将来が決めるだろう。


新興ASIAウォッチ/著者:山田順

新興アジアとは、ASEAN諸国にバングラディシュとインドを加えた地域。現在、世界でもっとも発展している地域で、2050年には世界の中心になっている可能性があります。そんな希望あふれる地域の最新情報、話題を伝えていきます。
※本コンテンツ「新興ASIAウォッチ」は弊社Webサイト用に特別寄稿して頂いたものとなります。

山田順(やまだ じゅん)

1952年、神奈川県横浜市生まれ。立教大学文学部卒業後、1976年光文社入社。『女性自身』編集部、『カッパブックス』編集部を経て、2002年、『光文社ペーパーバックス』を創刊し、編集長を務める。日本外国特派員協会(FCCJ)会員。2010年、光文社を退社し、フリーランスに。現在、ジャーナリストとして取材・執筆活動をしながら、紙書籍と電子書籍の両方のプロデュースを手掛けている。
著書にベストセラーとなった「資産フライト」、「出版・新聞 絶望未来」などがある。

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投稿更新日:2015年10月27日


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